諸葛正弥の教育論
教育に関する持論や新しい教育のあり方について、教師として、または保護者として、様々な切り口でお話します。(元タイトル:子どもの才能を伸ばす教育を)
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アクティブラーニングを成り立たせる土台
アクティブラーニングを導入するにあたって、
どのような環境を整えていくのが良いのか、
どのような下地を作っておくと良いのか、
という観点で考えてみたいと思います。

私自身、アクティブラーニングという取り組みに対して
明確に正解がある訳ではないので、
こういうことを書きながら整理していきたい、
という思いが第一なのですが、
ある場所で
挙手指名は軍隊的でダメだ、
自由発言でないといけない、
という論調を目にして少し違和感を覚えました。

私のスタンスを示しておくと
アクティブラーニングとは、生徒同士の話し合いだけ、
を指すものではない、と考えていますので、
生徒が活性化する取り組みであれば、
挙手指名でも充分に成立すると考えています。

さらに言えば、純粋に生徒同士の議論を
活性化するためにも、その土台作りの過程で
挙手指名は必要だと思っています。


挙手指名に否定的な方は
 ・分かる子ばかりに答えさせるだけで偏りがある
 ・1回の授業で発言できる子は限られている
 ・子どもの発想が狭くなる
 ・活発な議論になり難い
 ・軍隊的で威圧的である

などの意見があるようです。
確かに一理ある、と思います。

アクティブラーニングを目指すのなら、
子ども達が主体的に参加、発言し、活発な議論が行なわれる空間を目指す、
というのが本筋でしょうから、その意味で挙手指名は否定される要素、
になるのかも知れないと思います。

しかし、
そこで自由発言にさせればいいか、
といえばそうではないという現実も知っておく
必要があるでしょう。

コミュニティの中での自己主張のあり方も含めた、
個人の自己表現力が育てられているからこそ、
教育先進国の授業は成り立っているのではないでしょうか。

そうした文化的な土台が異なる日本で
自由発言にするとどうなるか、
きっと、一部の自信を持った子どもだけが発言をする授業になるでしょう。

または、
いわゆる作法の部分とでも言うのかも知れませんが、
引きどころが分からない子ども達が
好き勝手に発言をした内容を先生が処理することに
追われてしまう授業になることでしょう。

ですから、
どこかで適切な自己表現力を身につけさせなければ
ならないのではないか、と思います。


例えば
間違った答えを発言しても、それを否定するのではなく
新しい議論を生み出すきっかけへと切り替える発想を
教えるのは先生の仕事。

私は挙手をさせる、ということは
あまりしませんが、生徒の顔を見て指名をしています。

先生と子ども達との間で
1対多数のやり取りを行ない、
指名をしていく中で、
答えて損したという空気を払拭し、
間違っても良いから、その発言を元に
さりげなく軌道修正しながらも授業が作られる、
というやり取りを先生が見せてこそ、
自己主張し辛い子も巻き込んで
子ども達がお互いを尊重し、話し合える土台が
形成されていくのではないか、とも思います。

要は、
自由発言で「きちんと」話し合える土台を作るために、
受け入れる、発言する、聴く、自分の考えを持つ、話し合う、
といった習慣を身につけるための練習を
まずは先生との対話を通じてやっていこう。

というステップが指名でのコミュニケーション、
いわゆる1対多数のやり取りでできるのです。


さて、
それはともかく
ハーバードの有名な白熱教室

あれはアクティブラーニングではないのかも知れませんが、
あのような授業も大いに有効なものだと思います。

白熱教室で見られる光景もまた、
自由発言ではなく、挙手指名。

あれも軍隊的で発想を狭めるもので、
子ども達の議論を狭めるものなのだろうか。

決してそんなことはないと思うのは私だけではないはずです。



授業には様々な形態が存在し、
それぞれに狙いがあり、効果があるものです。

教えるべきことは教えるべきことで存在します。
1対多数で議論するからできることもあります。

ですから、
生徒同士の話し合いだけですべての授業が成立する、
ということはありませんし、
その他は能動的学習ではない、というのも違和感を感じます。

議論は知識という道具があってこそ、であり、
純粋に聞く、という時間もきちんと学習する、
ということも必要な教育です。

先生との議論でより深い問題提起をされ、
考えるきっかけを与えられたりすることも
重要な教育です。

いわゆる生徒同士の話し合いを成立させるのも、
そうした背景によって培われた土台によるもの、
なのではないでしょうか。

そして
場面に応じて使い分けることも重要で、
生徒同士の話し合いだけがアクティブラーニングなのではない、
と思っているからなのかも知れませんが、
やはり、アクティブラーニングにおいて
挙手指名が軍隊的だからダメと決め付けるのはおかしいと思います。

挙手自体は積極的に参加をしようとする意思表意でもあるので、
上手に取り込んでいけばいい。

挙手できない子が参加できない、というなら、
挙手ではなく、先生が指名をしていけばいい。

答えられない子、間違えたくない子がかわいそう、
と言われることもありますが、そういう空気を作っていることが
まず問題で、それなら自由発言ならなお一層、そうした子どもは
自己主張などできないでしょう。
(友達同士でなら話せるかも知れませんが・・・)

そもそも発問に対して、
「正解」「不正解」でしか答えられないやり取りなら、
指名されて答えるには勇気がいることでしょう。
知っているか試す、という質問ではなく、
先生が生徒と授業をつくっていく過程にどう組み込むか、
という発想でやり取りをしていくことが大切なのではないか、
と思います。

そして、
発言に対してそれを受け入れる発想や習慣が
クラスにあるかどうかは大きな要素でしょう。
それはそこまでの生徒との関わり方、
姿勢、人間教育のあり方、が大きな影響を与える部分だと思います。


アクティブラーニングを議論している方々が
あれはダメ、これをしてはいけない、これはアクティブラーニングではない、
と先生自身が強固に縛られている様子を見ていると、
果たしてこれは、本当に活動的な授業なのか、と思ってしまいます。

もっと純粋に、
生徒を生き生きと授業に参加させて、
活発に楽しく学ぶ環境を作るために、
どんな下地をつくって、どう関わっていくか、
ということを先生自身を縛られずに挑戦していく姿を見せることが
生徒にとってもいい影響を与えるような気がするのですが・・・

だから、
挙手指名があってもいいし、
講義が入ってもいい。

それが生徒をアクティブにし、学びを活性化させる
仕掛けになるのなら、否定するものでもない、
と思うのですが、どうでしょうか。


何だかダラダラと長くなって
まとまりもなくてすいません。
とりあえず、個人的な雑感、ということで・・・
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早期の英語教育の是非
英語を小学3年生くらいからやるべき、
という話があるけれども、
手放しで賛成はできないと思っています。

国際化が進む中、
英語ができる、ということは重要なのかも知れませんが、
それはコミュニケーションツールとして「使えれば良い」のであり、
まずは母国語である日本語の教育をしっかりすべきである
と思っているからです。


特に小学校の低学年の間は
日本語教育をしっかり行ない、言葉を使って会話をし、考える
という時間をしっかり作ることが、思考力を養う土台になる
と思っています。

日本人は基本的に日本語で物事を思考し、論理立てていきます。
要は日本語を上手に操り、自在に組み立てていくことで
思考を整理し、考えを深めていくのです。

私は言語学者ではないので、
あまり詳しいことは分かりませんが、
その言語を操る土台が成熟する前に、
英語教育を早期に導入していくとどうなるか。

私には良い結果を生むような未来が見えないのです。
要は日本語も英語も中途半端になってしまえば
物事を考える土台が崩れてしまい、
その他の学習内容の成熟度にも影響を及ぼすような気がしてならないのです。


主観で物を言うべきではない、とは思いますが
ダメでした、という結果が出てからでは遅い、というのが教育です。

敢えて警鐘を鳴らしておくことも大切なのではないかな、
と思いますので、こんな話をさせて頂きました。



さて、一方で
そもそも、言語の習得には使うことを習慣化する、という要素が不可欠です。

週1~2時間程度では、
恐らくやっては忘れ、やっては忘れ、を繰り返し、
定着は難しいことでしょう。

だから、
先述のような思考の混乱、は起こらないとは思いますが、
それならそれで、やる意味は本当にあるのか、
と思わざるを得ません。

ただでさえ通常の学習でも
前にやったことを覚えておこうとする子どもが少ないのに
何を積み上げていくことが目的なのか疑問です。


英語教育自体は推奨しますが、
順序、タイミングと質の問題かな、と思います。

【0017】議論を学ぶ文化を
今の日本の教育には、
議論をする、ということに対する
経験を積む場がありません。

基本的に、
与えられた知識を
与えられた通りに使うことが良しとされ、
自分の意見という名の模範解答が求められる。


集団の中ではみ出ない、
多数派の意見を言えるかどうか、
が重視され、そうでない意見を言うと
恥ずかしいという雰囲気はまだ払拭できていません。

しかし、
個人的にはこれは当然の流れで、
道徳教育の中でも恣意的に仲良くすることが
教えられ、他者と対立することは学ばない。

そして多様性の受容という名の下に、
他者が言うことをそのまま肯定することを
良しとする風潮すらある。

これでは、
他者の意見に反論すること自体が悪であり、
道徳的におかしい行為、という潜在的な意識が
芽生えてもおかしくはないでしょう。


そして何より、
そうした馴れ合いの構図から
抜け出すだけの「芯」を持つ、といいますか、
生き方の「軸」を持つ教育は一切なく、
人としてどうありたいか、あなたはどうありたいのか、
という自身の行き方や価値観を内省する教育もありません。

それなら
どうして、他者の意見に対して、
自信を持って反論をすることができるでしょう。

自分自身の中に一本筋が通っていないから、
他者の意見や集団の流れに巻かれることを拠り所とするしかない。
そうでなければ不安だから・・・

集団の中にいて、
大勢の意見と同じなら、
安心できるし、怖くない。
自分の意見はそれで良い、というある種の満足感を得られるのです。

それで議論は成り立つのか、
いや無理でしょう。

それでは、世界の場では、
とても戦えない。

何しろ、自己主張の強い国の人々は、
議論することが当たり前なのですから・・・

自分の意見、
他者とは異なる、
自分自身の存在感を示す意見を言えてこそ、
世界で勝負をするための役割を得ることができる。

しかし、
今の教育では
個人の素養に頼るばかりで、
それを意図して育てることは難しい、
と言わざるを得ないでしょう。



これからの教育は、
答えのない議論をしながら、
自分の意見を決める、という決断の教育をしなければいけません。

そして何を基準に決断をするのか、
その材料を探すために本を読み、学び、
知恵をつける。

そこから、
他の人にはない、
自分の意見を述べようと努めていく・・・


それが学ぶ意味であり、
社会に出て求められる能力でもあります。

その結果、
学校で勉強すれば終わり、ではなく、
生涯、自分のために学び続ける、という意識が形成され、
議論を交わすことが当たり前の光景になる。

単に生涯学習と言うだけでなく、
そして、それが趣味の講座、というだけでなく
社会や未来のために議論を交わすことに価値を見出し、
そのために学び続ける。

その姿を子どもが見て、
学ぶ姿を、学び、その習慣が継承されていく。

それが、学びの教育の本質なのではないかな、
と思います。


さあ、
テーマは何でも良いです。
議論を交わす、ということを恐れず、
自分の意見を持って、他者と関わっていきませんか。


【0012】二極化ではない教育を
日本の教育は過去、
「学力重視」と「ゆとり教育」を繰り返しています。

学力偏重だ、詰め込み教育はダメだ、となっては
ゆとりになり、ゆとりのせいで学力が低下した、となっては
学力重視へと変わってきました。

どうも、その変わり方が
極端な針のふれ方をしていて、
ちょうど良い按配の「落としどころ」を探るような
流れになっていかないのが残念です。


これからの新しい教育を考えるときも
やはり、そうした極端な変革ではなく、
静かな変革による、連続性を持った教育を模索し、
二極に振れる方針の間に子ども達や教師が
振り回されない方法を見出さなければいけません。


そのためには、
緩やかに学校が変わり、
そこで学ぶ生徒や保護者に影響を与え、
家庭教育が変化し、社会が変わっていく・・・

結果として教育の制度が変化していく。
そういう視点で考える必要があるでしょう。

というのも、
今の教育改革は学校を変える、教師を変える、
カリキュラムを変える、など、学校に対する変革を
強く求めるものになっていますが、
いくら学校が変わっても、
そこに集まる子ども達の教育の多くを担うのは
結局、家庭であり、その家庭教育が変わらなければ、
本当の意味での教育の成果は得られないからです。

家庭教育が変わるには、
最終的に社会が変わらなければいけません。
社会の流れ、といいますか、教育のトレンドが変化すれば、
家庭教育の流れが変わります。

その流れを作るには、
まずは学校で小さな変化を起こし、
生徒、保護者に影響を与え、
一つの成果を残し、世の中で無視のできない存在になること、
だと思っています。

ですから、
学校改革から始めなければならない、
という点に異論はありませんが、
それが単なる学校たたきではなく、
最終的には、社会を変えることを目的とするものでなければならないのです。


そう考えると、
1896年に開設されたシカゴ大学付属実験学校(通称デューイ・スクール)での
実践というのは、カリキュラムが子どもの興味と発達段階に即したもの、というだけでなく、
社会での子どもの経験が学校での学習に利用され、学校で学んだことが社会で生かされる、
ということが目指されていた、という
デューイのことを思い出しました。

学校をコミュニティとして、民主的な社会の一員としての役割を学習し、
その先に、その学習と経験によって、実際の社会を改革することまでを
想定していた、という構想は、まさにこれに当たる気がします。

こんな話をしていながら、
歴史は繰り返される、とはよく言ったもので、
結局、教育も繰り返されるものなのかな、
とも思います。

ただ、単に繰り返し、
同じことをするのではなく、
そこに今を見つめて、丁度良い按配を探り、
変化する時代に合った「落としどころ」を見つけることが
これからの教育を考える人間に必要な視点なのではないでしょうか。




【0010】次世代の教育で大切にすべきこと
先端教育、というと、
いかにも特別な、といいますか、
特殊な教育をする、というイメージが
先行しますが、私の考えは少し違います。

やはり、
「当たり前のことを、当たり前にできるようになる」

というのは基本だと思っていますから、
特殊なことばかりに目をやって、
やるべきこと、抑えるべきポイントが
疎かになってしまっては本末転倒だと思っています。


ですから、
先端教育として、次世代の教育を考える時に、
いつも「土台をいかに作るか」という視点を
忘れてはならないのです。


それは基礎学力であり、
生活習慣でもあると思います。

基礎学力と言うのなら、
その中でも何を、という議論も起こってくるでしょう。

初めはそれで良いのだ、
と思います。

特殊な教育方法に色めき立って
足元を見失ってはいけないからです。

本来、教育で何をすべきか、という原点を見つめ、
そこを深めた先に、その実現方法として、
新しい教育の手法が模索される・・・

そんな姿を目指していきたいものです。


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