諸葛正弥の教育論
教育に関する持論や新しい教育のあり方について、教師として、または保護者として、様々な切り口でお話します。(元タイトル:子どもの才能を伸ばす教育を)
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日本人は自己主張が下手か
日本人は自己主張が下手である、とよく言われます。
しかし、本当にそうなんでしょうか。

「英語での」という枕をつけるなら、
確かに下手なのでしょう。
しかし、それは言語の問題です。

実際に留学生が日本人と交流した際の意見として、
英語では、必要最低限の回答しかしてこないが、
日本語でなら、必要以外のプライベートなことまで
積極的に話をしてくれる、という声が多いです。

私たちは自己表現が下手という先入観に必要以上に
とらわれてしまい、自分で自分にそういうレッテルを貼り、
メンタルブロックをかけてはいないでしょうか。


しかしながら、
こういう指摘もあります。
日本人は自分が関わるサークル(輪)の中では
積極的なコミュニケーションを行なうが、
異なるサークルのメンバーとは交流をしようとしない。

要は、自分の属するサークルの枠を破って
異なるコミュニティのメンバーと関わる勇気が持てない
ということなのかも知れません。

または、世代を超えた交流、
立場を超えた交流などは避ける傾向にあるようですし、
日本人が持つ美徳としての謙虚さが、
「自分が話しかけたら迷惑ではないだろうか」
という意識を生み、交流を避けている傾向にある、
ということなのかも知れません。

こういう内向的な行動の傾向も
自己表現が下手、という印象を形成する要因と
なっているのでしょう。

ただ、これは自己主張ではなく
他者との距離感の作り方の問題です。
ですから、自己主張が下手というよりも、
交流できる相手の幅を広げることができれば、
日本人も対等に関われるようになる、と感じています。

交流できる相手の幅を広げるツールが英語であり、
コミュニケーションスキルなのであり、
要は日本人が自己表現が下手、
というよりも、そういった交流するためのスキルセットが
不足しているというだけなのではないかな、と思います。


過ぎたるは猶及ばざるが如し
生徒への面倒見が良いからと言って、
何でも教え過ぎる先生では、生徒が依存し成長しない。

教室の居心地が良過ぎても、
馴れ合いの空間になりやすく、
授業とのケジメがつき難い。

他に、
住まいにおいても
子ども部屋の居心地が良すぎると
個室へ籠り、共有の空間に出てこない。

なども考えられます。
要は、あまりに都合の良過ぎる環境を与えてしまうと、
かえって悪影響を及ぼす可能性が高まる、ということなのかも知れません。

だから、少し居心地を悪くする仕掛けが
あえて必要になってくる、と思っています。
別の言い方をするなら、
一定の緊張感を保つ、とでも言いましょうか。


しかし、
それはそれで、
生活全般がそれに支配されてしまうと、
成長と引き換えに
いつかは神経が擦り減っていくでしょう。

常にバランスを考えることが大切で、
まさに、
過ぎたるは猶及ばざるが如し
ということを頭に入れて環境を整えないといけないのでしょう。

どんなに良いことでも、やり過ぎるのなら、
やり足りないのと同様に良いこととは言えない。

まさにそうならない要にバランスを考えて指導が必要ですね。
アクティブラーニングと講義
私は研修などで、
アクティブラーニングと講義はバランスよく行なうことが大切、
と申し上げておりますが、少々、誤解も招くことがあるので
補足をしておきます。


私はアクティブラーニングとは、

 ・生徒を能動的に授業へ参加させること
 ・思考を活性化する学習形態のこと

であって、実は非常に幅広い解釈ができるもの、
と捉えています。

いわゆる講義形式の授業はアクティブラーニングではない、
と仰る方もいるのですが、実は講義形式の授業でも、
生徒との会話のキャッチボールを盛んに行ない、
問いを投げ、考えさせ、積極的な思考を促す環境を作れていれば、
それはそれで、アクティブラーニングに含まれる
と考えています。


ですから、
生徒同士の話し合いがアクティブラーニングで、
教師が講義を行なうのは間違いである、
という論調を見ると、それも極端だな、と感じますし、

逆にアクティブラーニングでは知識は深まらない、
というのも違うんだろうな、と思うのです。


要は講義形式であっても、生徒を能動的にさせ、
自ら考え、行動させるようにする、という授業は可能で、
形式にこだわらず、
生徒を主体的・能動的に授業へ参加させ、
思考を活性化させれば良いと考えれば、
授業の幅もグッと広がるのではないでしょうか。


アクティブラーニングは難しい、と思っている方も、
まずは
「単に黙って聞きなさい、という授業」
からの脱出を試みる、ということから始めてみれば
実は相当にハードルの低い取り組みなのではないか、
と思うのです。


私自身のことですが
10年くらい前に
授業の予習としてマインドマップを描かせてから
授業に参加させる、という手法を行なったことがありました。
たったそれだけで、普通の講義で生徒への発問に対する
反応が変わり、そこからの議論も深まり、
授業の質が変わっていきました。

その習慣ができていくと、
次第に授業では、授業でしかできないことをやろう、
という意識が高まり、単なる知識の暗記のような作業は
家庭で済ませ、授業では原理や他単元へのつながり、活用法に関する
議論を行なう場へと変わっていきました。

それも充分にアクティブな学習空間だったと思います。

ですが、
アクティブラーニング=生徒同士のグループワーク・ペアセッション
というイメージが先行しているので、
講義もアクティブラーニングになり得る、なんて話したら

「何を言っているんだ」

と反発される可能性も高いため、
私は便宜上、
アクティブラーニングと講義はバランスよく、
という話をしています。

その講義も、当然、生徒を能動的にし、
思考を活発にしていく工夫が必要なのは言うまでもありません。


そしてアクティブなら良いのか、と言えばそうではなく、
生徒同士で話し合わせるという形だけで満足し、
形骸化してしまうのは逆効果、と思っています。

ですから、
生徒同士のディスカッションも良いですが、
話し合いをさせて満足、ではなく、

形式的なことに踊らされず、
本質を捉えて、
生徒の積極的な学びを生み出すために、

まずは普通の講義で生徒を積極的に参加させる空間を作る、
という工夫から始めて欲しい、と考えています。

黙って聞け、
静かに黒板を写せ、
という講義からまずは脱出し、
講義でも積極的に考えさせ、
教師がいるからこそできる知識の深化やきっかけを与え、

それらを土台とした上で
グループワーク、ペアセッションなど、より活動的なワークで
より主体的な知識の活用を行なう。

それが本来の姿なのではないか、
と思うので、講義の重要性も訴え続けています。

サンデル教授の白熱教室も講義形式、
そして、TEDのようなプレゼンテーションから学べることも多い。

アクティブラーニングという形式だけに踊らされることなく、
より良い授業をつくるために何をすべきか、
を考えた上で、新しい授業のカタチを模索したいですね。
叱れない子育てになっていませんか
「叱らない子育て」という言葉を
よく耳にするようになってしばらく経っていますが、
実際に「叱れない子育て」になっている方を見かけると
個人的には少々、心配になります。


叱らない子育て、というのは要するに、
子どもの自尊心、自己肯定感を損なわないように、
トップダウンで押さえつけるのではなく、
子どもを一人の人間として尊重した上で、
自ら自覚し、行動するように対話を通じて導いていこう、
という趣旨だと理解しています。

それならば、納得です。
否定するところはありません。


ですが、それは悪いことを悪いと伝えてはいけない、
やってはいけないことを指摘してはいけない、
という意味ではないはずなのです。

ところが、
「叱らない子育て」を都合よく解釈し、
「叱れない子育て」になっている方をよく見かけます。


アドラーの心理学から
「叱らない子育て」という発想が出ていると認識していますので、
アドラーの考え方から確認していきます。

基本的に、勇気づけという観点で関わることを軸として
相手と関わることで、お互いに良い関係を構築できる、というもので、

岩井俊憲さんの著書「勇気づけの心理学」によれば、

-勇気づけとは、自己尊重(自尊心)と自己信頼を築くのを支援するために個人の持ち味と潜在力に焦点を当てるプロセスであり、勇気と信頼を確立するのに欠かせない技術を適用することで現実化する理論である。(ディンクマイヤーによる定義)-

とされています。

それならこれは、
基本的な態度として、
お互いを尊重しあい、信頼しあう態度の上で、
より良い行動を起こしていこうとする意欲を育てていくための関わり方です。

目の前にすでに起こっているトラブルをどう解決するか、というものではありません。
どちらかと言えば、予防するために、そして次に繰り返さないために、
どのように関わるか、というものです。

だから、
目の前に起こっている事に対して、
何もしなくていい、放置していい、ということではない、
と私は考えています。

目の前に危険があるのなら、
他者への迷惑が明確に生じるのなら、
それは保護者の責任として止めた上で、
「勇気づけ」をして次に起こらないように話をすべきでしょう。

大切なのは、まずそこで、
子どもが話を聞ける関係にすること。

そこに至る前にまず、目の前に生じている現象を止め、
なぜ、それがいけないのか、止められたのか、を
真剣に、短く、強く伝えることは非常に重要です。

それが叱るということで、
何が良くて、何が悪いのか、を熱意をもって伝えること、
そして、今、起こっている「悪いこと」「危険なこと」を止めるために
事の重大さを理解させるために表現すること、でもあると思います。

その部分が冷静さを失い、
「叱る」ではなく「怒る」になって
相手の自尊心や人格を損なうような言葉がけや
親のイライラを解消するために感情的な爆発をぶつける、などが
混じるとおかしなことが起こる、ということで、
ダメなものをダメと伝えてはいけない、ということではないのです。
(私の解釈なので怒られてしまいそうですが・・・)

だから、「叱らない子育て」ではなく
「怒らない子育て」が正しいのではないか、と思います。

先述した
岩井俊憲さんの著書「勇気づけの心理学」の中で

勇気くじきをやめる

という部分があります。
これがいわゆる「叱らない」の考え方の土台になっているのかも知れませんが、
そこでは勇気くじきをやめるには、

①原点主義
②ダメ出し
③結果重視(プロセス軽視)
④競争原理
⑤人格軽視
⑥聞き下手
⑦失敗を非難

以上の7つのパターンをやめるように心掛ける
とされています。

さて、電車の中で靴をはいたままシートに乗り、
隣の人の衣服に土足の靴の汚れがつきそうなとき、
それを叱らないのは、
それは、②のダメ出しをしてはいけないから、なのでしょうか。

私はそれを叱るのは勇気をくじくダメ出しと同じではない、と思います。

いわゆるお絵かきなど、個々の発想が膨らませられるようなものに
個人の価値観でダメ出しをするというのは問題ですし、
お手伝いを失敗したなどというケースでダメ出しをしたり、
非難をするのはまさに勇気をくじくことだと思いますが、

社会のマナーやルールを破ったことに対して、
それはマナー違反、ルール違反である、という事実を伝えることは非常に大切で
これは勇気をくじく「ダメ出し」と同じにしてはならないと思います。

そして
こういうときによく考えなければいけないのは、
マニュアルでこう書いてあったから、~してはいけない、
という発想に縛られ過ぎていないか、ということです。

今、目の前に起こっている現象を放置することは
マニュアル云々を抜きにして、
社会を構成する大人の行動として、
そもそも相応しいかどうか、という観点で振り返ってみると良いのかも知れません。

そこで、
ウチではこういう関わり方だから、
周りに迷惑をかけても良いんです、となるなら、
社会性という点において子どもの教育以前の問題です。


子どもに優しく説明して、聞いてくれないから、
聞いてくれるようになるまで放置、という方もいます。

叱る、という行為は
何が良くて、何が悪いのか、を熱意をもって伝えること、
そして、今、起こっている「悪いこと」「危険なこと」を止めるために
事の重大さを理解させるために表現すること、
ですから、本当に叱らない、というのは
その重要性や伝えたい熱意を表現する、という観点が置き去りになっているため、
何度繰り返しても聞いてくれるようになることも、伝わることもないでしょう。

そして、
ただ理屈を捏ね繰りまわすだけでも良くありません。
ああ言えば、こう言うをお互いに繰り返すだけで、
余計な言い訳ばかりを聞き過ぎて、
結局、ルールやマナーが二の次になり、
個人の都合が勝ってしまう現象の陥っていきます。
ダメなものはダメ、という譲ってはいけない強さもそこには
表現しなければならないのです。


本当の優しさとは、
厳しくても、相手のことを思い、
熱意を持って関わること、だと思います。

親だからこそ、子どものことを思い、
時には心を鬼にして、真剣に伝えるべきことがあるのではないでしょうか。


そうした積み重ねの上に、
共有できる善悪の価値観ができ、
その先に、「いちいち叱らなくても済む関係」ができあがって、
本当の意味で「叱らない子育て」が実現していくのだ、と思います。


授業の前後の礼について
先日、ある研修会にて、
授業開始時の礼について取り上げた際、

「なぜ、日本では礼をするのでしょうか。大学、そして海外ではないですよね」

という指摘があった。
正直、私にはその起源は分からないので、
その場では
「なんででしょうね・・・?」

と思わず返すしかなかった。

勉強不足といえばそれまで、
しかし、それでも悔しいので、調べてみたのだが、
明確なものは見当たらない。


また、研修会の中では
「軍隊のように権威を示すためのもの」という意見もあった。

確かに、そう捉えることもできるだろうし、
実際に、そういう意図で行なわれていたこともあったのかも知れない。
そこは知見がないので分かりませんが・・・


そんな中で、ふと・・・
果たして起源が分かったところで、
それが軍隊のような規律や権威を誇示するためのものであったとしても、
では、「礼」は辞めるべきなのか、といえば、違うのだと思い当たった。

要はいま、どのような効果を生み出せるのか、
という視点で考えてみることの方が大切なのではないか。

そして、礼をすることに拘るというのは、
これは私自身の考えであり、生き方の問題なので、
効率が良いかどうか、という観点とは異なる話で、
エゴだ、と言われればそれまでなのかも知れない。

だが、「礼」とは
お互いに礼を尽くすためのもの、
尊重し合う姿を「お互いに」示すためのもの、
と捉えてみてはどうだろうか。

生徒に礼をさせなければならない。

という話ではなく、
お互いに礼をすることで、
お互いの姿勢を示し合おう。

そんな礼であれば、海外がやってないから
やる必要はない、というのは早計な気がしてならない。


だから、
同時に礼をするのではなく、
生徒が礼をした後に、
生徒が顔を上げたタイミングで
教師がきちんと礼をする姿を見せる。

お互いに礼を尽くす、その姿勢を表現する
その行為について、私は無駄とは思えない。


それでも、
強制的に礼をさせることには変わらない、
それならそれは自己満足だ、と言われるかも知れないが、
その一場面を切り取るのではなく、
お互いを尊重し、礼を尽くす姿を表現することが当たり前の関係性を作った上での
流れであればそこに否定する要素はないように思える。

それに・・・
意外と授業の前後で礼をすることに対して、
海外からの評価は悪くなさそうだ。



礼儀正しさ、とは何だろうか。

それは形だけの儀礼をこなすこと、ではなく、
そこに心をこめること、を伝える文化を育んだ先に
結果として現れる姿なのだろう。

外国がすべて良い、
日本の伝統は悪い、
儀礼的なものは無意味、
時間の効率が最優先、
という先入観は果たして本当にそうなのか、
一見、無駄かも知れないことにも、
その中に込めることのできる
大切なものを見失っていないか、
そういう部分も考えた上で判断しないと、
日本の教育の良い部分も失われていくような気がしてならない。


さて、そうは言っても、
礼に関して、その起源と元々の目的を
続けて調査してみようと思う。
やはり、曖昧なのはスッキリしないので・・・


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