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諸葛正弥の教育論
教育に関する持論や新しい教育のあり方について、教師として、または保護者として、様々な切り口でお話します。(元タイトル:子どもの才能を伸ばす教育を)
09 | 2019/10 | 11
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中学受験は目的ではない
中学受験は目的ではなく、手段です。

そして、合格することは目標の一つではあるけれど、
決してそれは最終到達点ではありません。



けれど、

受験が終われば、すべてから解放される

という風に思っている受験生が
実に多いのもまた事実。



とても悲しいことです。








どこの中学に合格したか、

などということは、
実は大したことではなく、


結局、
その中学に行って、

「何をしたのか」

の方が大切なのですから、
テストで点を取る思考の習慣よりも、

「得た知識をどのように活かすのか」、
もっと言えば、

「なりたい自分になるためにどう使うのか」


という学習の習慣を身に付けていなければ
結局、どの中学校に合格したところで、
大きく羽ばたくことなく、

「ただ卒業しました」

というだけで終わるのです。


とはいえ、
点を取ることに対しては切磋琢磨する環境が
ありますから、有名中学で何とかついていけば
そこそこの大学に入ることはできるでしょう。


けれど、
それだけ、です。












いい会社に入るために、
いい大学に行きなさい。


よくある話です。



ですが、


ご存知ですか?



ある企業では真剣に、

東大卒の新卒を採用する人数を制限しよう
ということを検討していたりするのです。


東京大学は確かに日本の大学の最高峰です。


けれど、
本当に東大卒、という学歴がすごいのか、
といえば、


それは違います。








確かに東京大学には
優秀な人材が多いでしょう。

本当の賢さを持つ人も多いのは確かです。



けれど、
高学歴というブランドに隠れて
単に受験のテクニックで点数を取ることに特化しているだけで、
勉強はできるけれど、
それを活かす知恵が磨かれていない、
という人材が、

社会人としてどれくらい期待できるのか、
いずれ会社を担い、世界をリードする人材になるのか、
その可能性で考えたとしても、
大きな疑問が残る

ということなのです。


別にこれは他の大学でも同じことでしょう。


要するに
学歴だけに満足するような人材は求められていない
という時代になりつつある、
ということでもあるのです。



当然、
未だに学歴重視は変わりませんが、

自分の子どもを考えたとき、

高学歴ではあるけれど

単に処理能力に長けているだけで、
テクニックで機械的に点は取れるけれど、
自分で考えて判断・行動することができない、

という人材に育ちました。


そこそこ良い会社に入ったので安定収入があります。



それで良いですか?




誤解をしないで頂きたいのですが、


普通の会社のサラリーマンや公務員をバカにしているのではありません。






まだ小学生の、

しかも、多くの可能性を秘めた子どもの未来を

中学受験に合格する、
ということのためだけに、


大きな夢を見させることなく、


「これでいい」


と狭めてしまうのは、

私にはどうも悲しすぎるように思うのです。





ですから、

子ども自身が
「なりたい自分になるために」


その手段として中学受験があり、

その学びを通じて、
知識を使う術を知り、

学ぶ意味を知り、

夢へ向かって一歩ずつ進んでいく実感と共に
成長していくことがとても重要だと思うのです。



その目標の一つが受験に合格すること。

だから、

不合格でも、
目標の1つを達成できなかっただけで、
その先の将来の夢をかなえるために、

次は何をすればいいのか、
という計画を立て直せばいいだけ、
となるのです。



もちろん、
合格して、より夢に近づかせてあげたいのは当然ですが。




けれど、

受験勉強が「なりたい自分になるため」ではなく、
やらされている勉強で、

しかも、

合格することが「must」になってしまった子どもは

入試が近づくほど
そのプレッシャーとストレスに苦しみます。





一方で、

「なりたい自分になるため」の過程として

合格することが「step」である子どもは

入試が近づいても、プレッシャーはあるでしょうが、
合否で自分の夢が台無しになる、

とか、

後がない、という重圧に悩むことがありませんので、
平常心で試験に臨んでいきます。



さて、
どちらの子どもが入試の本番で力を発揮するでしょうか。



そして
どちらの子どもが

受験をした後も大きく成長することができるでしょうか。



本当の意味で学歴を活かし、
世界でも通用する人材になれるのはどちらか。


恐らく、答えを言わずともお分かりになるかと思います。



そのために必要なのは環境です。




保護者、
先生、
そして場所・・・


そうした学びに関する環境をどのように整えるかが重要なのです。



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親子で「なりたい自分になる」
 プレミアアフタースクール「エコール・リベルテ」

「自ら学び、目標を実現できる人材を育てる」
 学習教室「出師塾」

受験後も伸びる子1
中学受験というのは、
子どもたちが様々な意味で大きく成長する時期に
関わることです。

ですから、
その時の学習方法や習慣作りで
受験後も伸びるか、受験で伸び切ってしまうのか、
という差が大きく変わってきます。

その意味において
私は前者になれる子どもを育てたいと思っています。




しかし、それは受験に成功しない
という意味では決してありません。

よく勘違いをされるのですが、
目先の点数が取れることは悪いことではありませんが、
それは結果の1つであり、経過です。

ですから、目先の点数をとらせるための
学習に終始してしまうような学習習慣は
瞬間的には成果があったように映り、見栄えは良いのですが、
大切な力を見失ってしまっているという可能性があるのです。


例えば・・・
1400mはなれたA、Bの2地点から、はろ美さんはA地点から分速80mで、すく男君はB地点から
分速60mで同時に出発しました。
(1)2人が出会うのは何分後ですか。

(2)2人が出会うのはB地点から何mのところですか。

このような問題。
いわゆる「旅人算」ですが、
それを「出会う」と書いてあるので、旅人算の「出会い」の問題だから
分速の足し算だ、という具合に公式のように式だけで
(1)
60+80=140
1400÷140=10 答:10分後

という風に答える子は結構いるのではないでしょうか。
結果的には正解です。

ですが、その子は正しく現象を理解して解いているのでしょうか。
解答する際に考えていることは、
単なるパターンの当てはめで、
その文章でどのような状態になっているのか、
という状況把握をしようとする思考は働いていません。

それではパターン通りの問題はできますが、
応用されたらもう解けません。

もしかすると、(2)ですでに
正解率がグッと下がるのではないでしょうか。
(2)
80×10=800 答:800m

などとしていれば、
まさに現象が分かっていないということです。

反復で回数をこなすには
いちいち状況の把握などと言っていられませんので、
徹底的にパターンで解こうとします。
けれど、それだと
いま、何が起こっているのか、という読解ができていないので、
少しでもパターンから外れると急に答えが出せなくなるのです。


では、どうすればいいのか。
まずは、状況を図で描かせることです。
描き方など初めは指導する必要もありません。
自分なりに、文章の内容を図に直してみよう、とする練習から始め、
自分なりの条件整理をさせてから、例を示すのが良いでしょう。
(放置すれば良いのではなく、見守るという距離感が重要なのですが・・・)

なぜなら
自分で文章で書かれている状況を把握しようとする
トレーニングをしなければならないからです。
初めはできなくて当たり前です。
けれど、その壁は経験させなければいけません。
間違っていようが、考えた結果ならそれも構いません。
訂正をしてあげる必要もありません。
(それはダメだった、間違えた、という敗北感のような気持ちにさせることが目的なのではないからです。)

その後、正しい図の例を示した時に、
どこが違うのか、次に自分が描くと考えたとき、
何を見落としていたのか、どんな着眼点が足りなかったのか、
をじっくり考えさせましょう。


そして、その図を使って、
何がどのようになっているのか、という確認をし、
誰と誰がどのように移動し、どの辺りで出会うのだろうか、
という推理をした上で、式にして求めてみようとすれば、
公式のようにパターンに当てはめなくても、充分に解けるのです。

そうやって、現象を理解してから、
一般化してあげるという意味で、共通性などを見つけさせ
旅人算という概念を伝えれば良いのです。



だから私は
よく生徒から「なぜ公式を教えてくれないのか」と聞かれていました。
それは公式から教えて当てはめるだけの思考に
固めてしまいたくないからです。

まずは状況を把握すること。
そして、状況から判断して式を作ってみようとすること。

それをいくつか行なったのち、
共通性を見出だして一般化したものが、
結果として公式となる、という発想です。
そうすれば、公式など忘れても、自分で条件整理をすれば
公式を作ることができるのです。


これは受験勉強だけでなく
生涯学習においても重要で、
与えられた情報を鵜呑みにしてそのまま当てはめるのではなく、
自分でわかる限りの情報の中で、
条件整理をし、どのような状況なのか、
何がどのようになっているのか、を自分で考えるから
情報を取捨選択することができるようになるのです。

公式だよりではなく、
自分で文章題の状況を把握しようとする習慣作りが
受験だけでなく、情報化社会の中で生きる力も育ててくれる
と考えられるのです。


ただし、
これは、受験勉強以前の時期における習慣という土台の上に成り立つものです。
それまでパターン学習の経験しかなくて高学年になってから
突然、このようにシフトすると、戸惑うばかりで何もできず、
単に時間ばかりかかってしまい、
受験を目的としてこだわる方は特に、カリキュラムなどの進行に焦る結果になり、
目先の点数と偏差値が気になって上手くいかなくなることが多くなります。

受験は目標の1つであり、
目的ではない、という意識の下でしか、上手くいかないでしょう。


教育改革について
教育の改革は非常に難しい。

目新しいことをすれば良いのではない。



そして、
そこには何のために、
という芯がなければ、どんな方法論も無意味です。

だから、
手法論の前に教育観を定めておかなければ
当然、空中分解をするのです。



さらに難しいのは
教育は新しく刷新したから良いのではない、
ということです。

これまでの流れがあって、
良くも悪くも、そうした流れの上に乗っている生身の生徒を
どう導くのか、が課題なのですから、
現状を踏まえた上での「改革」というより「修正」という方が
本当は正しいのかも知れません。



また、
教育を停滞させる要因の1つに
変わろうとしない文化、積み上げのできない環境、があります。

個人単位では力のある先生が実践を積み上げていても
文化としての積み上げは乏しい。

現在、新教育と言われているような手法も、
50年以上前から言われていることが殆どで、
実は真新しいことは非常に少ないものです。


まさに
積み上げがなく、
いかに堂々巡りを繰り返しているのか、
ということです。

そして、
変わることを恐れ、
教育の中身・誇りを守るという言葉を盾にして、
本当に必要なことにまで
目を背けてしまって、
何もアクションを起こさない大人がいることも事実です。


もちろん
教育を改革するのが単に良いのではなく、
常に現状を鑑みて、
子ども達の実情と、時の変化を照らし合わせ、
何が必要で、何を修正していくべきなのか、
何を取り入れていくのが良いのか、
ということには常にアンテナを張り巡らせて、
守るプライドと変える勇気の両方をバランスよく持つことが大切です。


そうでなければ
経験だけが先走り、
気がついて振り返ると、
現実の生徒を見失ってしまうことでしょう。




ただ
地に足がついた教育をするには
改革よりも何よりも、
教育観を定めるための方策が必要なんですよね・・・

それも定まっていない、
イメージでしかそれを持っていないと
教育を守る、と言っても
変わるべきこと、と、変えてはいけないこと
守るべきこと、と、新しくするべきこと
子どものためになること、と、子どものためにならないこと
を判断する軸が定まらないで、
何でも反対するしかないのです。


だから
本当に教育に変化をもたらそうと思うのなら、
長いスパンで、人材の教育から始めなければ
結局、「変わることのできない」人々の抵抗によって
どんなことも成果を挙げるまでには至らないことでしょう。



要は教育には短期間で結果の出る魔法の薬などない
ということです。

仮に何かで短期間の成果が出たならば
私はその副作用の方が気になりますから・・・

[READ MORE...(続きはこちらから)]
人間観を育てる
世の中を見渡したとき、
「これが絶対に正しい」
「これが絶対に間違っている」
という判断はまずありません。


そこには必ず、
「こうあるべき」
「こうありたい」
という哲学的な主観が入り込みます。


そして
その主観というものは
人間観に基づくもので、
それを我々は「道徳」「モラル」「思想」などと呼んでいます。



人間は物事を判断する際、
何を基準に善し悪しを判断するのか、
と言えば、まさにこの部分が判断の軸になっているのではないでしょうか。

叱るのも、ほめるのも、
受け入れるのも、拒絶するのも、
恐らくは、個々人が持つ価値観という主観、人間観によって
判断をしているはずです。


しかしながら、
私達は、そうした人間観の軸を定めるために
考えたり、学んだりする機会はあったでしょうか。

残念ながら戦後の教育において、
それは排除されていきました。
諸刃の剣だからです。


ただ、それは
そういう機会が足らないことを自覚した私達が
生涯学習という視点に立って、
大人としてどう生きたいのか、を話し合ったり、
議論し合ったりして人間観の軸を定めていこうとすること自体を
禁止されている訳ではないのです。

そして
人間観の軸が定まっていないと
当然、判断の基準が揺らぎますから
善し悪しの判断も場当たり的で、直観的な判断になり、
時にブレる、ということが起こるのです。

ブレるという曖昧さがあるのが人間なのかも知れませんが、
ブレ続けていては、それによって教育される子どもにとってみれば、
何を軸に善し悪しの判断をしていいか、学ぶことができず、
結局、何が良くて、何が悪いのか、を自分で判断する力が
育たないという結果になってしまうのです。


子どもの前に立つ大人すべてが
人間観の軸について、今一度、考える機会を作ることが
必要な気がします。

それは全員が同じ必要はなく、
「私はこうありたい」
という軸をそれぞれが確立しようとすることが大切だということです。



見失っている教育
多くの授業を見たり、
保護者の方からの意見を伺っていると
見失っているものがあるのではないかな、
と感じることがあります。

それは、
子ども自身に試行錯誤させ、時間を与える
ということ。


どうしても、
できない姿を見ると、
答えを教えたくなって、
こうやるんだ、と説明してあげてしまう。

それで、
解決方法を覚えれば
同じ様なパターンの事柄になら対処できるかも知れませんが、
残念ながら、自分で問題解決ができるようになっているのではないのです。


パターンというレールの敷き方が上手くなり、
その上を歩くのが上手くなるけれど、
そもそも、どこにレールを敷けばいいのか、
どのようにレールを敷くのか、
という計画が立てられるようにならないので、
別のパターンが登場したとき、
やはりまた、教えてもらうまで何もできないのです。


私は学習には2つの側面があると思っています。
1つは制限時間内で答えを出す、という時間にコミットする学習。
制限時間を設定するのは、
効率良く、適正に集中することのできる時間で学習する
という点で非常に大きなメリットがあります。
さらに言えば、
将来、社会に出たとき、
必ず期限という制限時間がついてまわります。
そのとき、時間までに成果をあげるという計画性があるかどうか、
というのは大きな武器になるのです。

2つ目は時間制限を設けず、自力で壁を乗り越える学習。
自分自身で試行錯誤を繰り返し、
その結果、解決した事象はまず忘れません。
そして、結論に至るまでに多くの失敗を繰り返していますから、
他の事柄に対しても、どうしたら失敗し、
どうすれば上手くいくのか、という判断力が高まっていきます。
要は自分で体験した経験という武器を手に入れることで、
決断力を養い、問題解決をする上での行動力が育つのです。

また、
試行錯誤をする中で、
因果関係や筋道を嫌でも考えますから、
論理的な思考を身に付けるのにも役立ちます。


ただ、
このように試行錯誤をさせる教育をするには
時間が必要なのです。

待つことが出来るかどうか、が鍵です。

上手に見守ることができるかどうか・・・

それができない方が非常に多い。


そして結局、
子どもは自分で考えず、
自分で筋道を立てるのではなく、
パターンで「当たり」か「ハズレ」かというだけの
短絡的な行動で問題解決を図ろうとするのです。


違えば、教えてくれない大人が悪い。
あっていれば、純粋に「あたった!」と喜ぶ。


それで将来、生きる力が身に付くでしょうか・・・
恐らく無理でしょう。



子どもが試行錯誤をして
できなくて、騒いでいる。
それは
できるのが当たり前、という価値観を作ってしまった大人の責任です。

そして、
子どもができないのにイライラして、
教えてあげて、
その瞬間を解決してあげるのも、
それは誰の為か。

それは大人がスッキリしたいだけ。
と思って欲しいのです。


子どもは解決できて良かった、と思うのでしょうけれど、
子どもが自覚していないところで失っている力があるのです。


優しさと甘さは異なります。


時に、教えてあげた方が良いこともありますが、
自分で考える習慣のない子ども達が、
どんな習慣を身に付けてしまっているのか。

その現実に直面すればするほど、
自分で考える、という教育を見失っているような気がします。




自分で調べたり、
自分で探したり、
間違っても良いから試したり・・・

そんなことを繰り返して
何かをできるようになる。

自分で考え、経験して通過するから、
身になっていく。



当たり前のことのようですが、
時間に追われている現代で、
どうも失われていってしまっているのではないでしょうか・・・

ゆとり教育とは
本当は、そういうゆとりが必要だった
と思うのは私だけではないはずです。


追記
短い時間で早く処理をさせるトレーニングも
処理能力向上のために必要なことではありますが、
テストで点を取らせるためだとするなら、
半年もあれば鍛えられます。
初めからそうした環境下で固めてしまうと、
短い時間で反射的に分かること以外の考える事を
放棄する傾向が見られるようになるので、
低学年の内に優先すべきは「時間を与えること」だと思います。

ただし、
注意をしなければならないことは
集中しているなら継続させる
だらだらしているなら中断させる
ということは見守る側が見極めてあげる必要がありますが・・・


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moro(諸葛正弥)

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