諸葛正弥の教育論
教育に関する持論や新しい教育のあり方について、教師として、または保護者として、様々な切り口でお話します。(元タイトル:子どもの才能を伸ばす教育を)
07 | 2017/08 | 09
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
ヒューマンキッズサイエンス東雲教室・ロボット教室へ
■江東区・東雲にロボット教室・新規開校!ヒューマンキッズサイエンス東雲教室 ホームページ
■教育ブログをお探しの場合はこちらを参考にして下さい。(別ウインドウが開きます。)
        にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
■お問い合わせはこちらからメールにて受け付けております moro@t-skill.com までお気軽にどうぞ
メルマガ登録・解除
購読無料◆勉強ができる子は何が違うのか。どんな習慣を身につければ良いのか、など。「できる子」を育てる秘訣を紹介します。>> サンプルを見る
 
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アクティブラーニングと講義
私は研修などで、
アクティブラーニングと講義はバランスよく行なうことが大切、
と申し上げておりますが、少々、誤解も招くことがあるので
補足をしておきます。


私はアクティブラーニングとは、

 ・生徒を能動的に授業へ参加させること
 ・思考を活性化する学習形態のこと

であって、実は非常に幅広い解釈ができるもの、
と捉えています。

いわゆる講義形式の授業はアクティブラーニングではない、
と仰る方もいるのですが、実は講義形式の授業でも、
生徒との会話のキャッチボールを盛んに行ない、
問いを投げ、考えさせ、積極的な思考を促す環境を作れていれば、
それはそれで、アクティブラーニングに含まれる
と考えています。


ですから、
生徒同士の話し合いがアクティブラーニングで、
教師が講義を行なうのは間違いである、
という論調を見ると、それも極端だな、と感じますし、

逆にアクティブラーニングでは知識は深まらない、
というのも違うんだろうな、と思うのです。


要は講義形式であっても、生徒を能動的にさせ、
自ら考え、行動させるようにする、という授業は可能で、
形式にこだわらず、
生徒を主体的・能動的に授業へ参加させ、
思考を活性化させれば良いと考えれば、
授業の幅もグッと広がるのではないでしょうか。


アクティブラーニングは難しい、と思っている方も、
まずは
「単に黙って聞きなさい、という授業」
からの脱出を試みる、ということから始めてみれば
実は相当にハードルの低い取り組みなのではないか、
と思うのです。


私自身のことですが
10年くらい前に
授業の予習としてマインドマップを描かせてから
授業に参加させる、という手法を行なったことがありました。
たったそれだけで、普通の講義で生徒への発問に対する
反応が変わり、そこからの議論も深まり、
授業の質が変わっていきました。

その習慣ができていくと、
次第に授業では、授業でしかできないことをやろう、
という意識が高まり、単なる知識の暗記のような作業は
家庭で済ませ、授業では原理や他単元へのつながり、活用法に関する
議論を行なう場へと変わっていきました。

それも充分にアクティブな学習空間だったと思います。

ですが、
アクティブラーニング=生徒同士のグループワーク・ペアセッション
というイメージが先行しているので、
講義もアクティブラーニングになり得る、なんて話したら

「何を言っているんだ」

と反発される可能性も高いため、
私は便宜上、
アクティブラーニングと講義はバランスよく、
という話をしています。

その講義も、当然、生徒を能動的にし、
思考を活発にしていく工夫が必要なのは言うまでもありません。


そしてアクティブなら良いのか、と言えばそうではなく、
生徒同士で話し合わせるという形だけで満足し、
形骸化してしまうのは逆効果、と思っています。

ですから、
生徒同士のディスカッションも良いですが、
話し合いをさせて満足、ではなく、

形式的なことに踊らされず、
本質を捉えて、
生徒の積極的な学びを生み出すために、

まずは普通の講義で生徒を積極的に参加させる空間を作る、
という工夫から始めて欲しい、と考えています。

黙って聞け、
静かに黒板を写せ、
という講義からまずは脱出し、
講義でも積極的に考えさせ、
教師がいるからこそできる知識の深化やきっかけを与え、

それらを土台とした上で
グループワーク、ペアセッションなど、より活動的なワークで
より主体的な知識の活用を行なう。

それが本来の姿なのではないか、
と思うので、講義の重要性も訴え続けています。

サンデル教授の白熱教室も講義形式、
そして、TEDのようなプレゼンテーションから学べることも多い。

アクティブラーニングという形式だけに踊らされることなく、
より良い授業をつくるために何をすべきか、
を考えた上で、新しい授業のカタチを模索したいですね。
アクティブラーニングを成り立たせる土台
アクティブラーニングを導入するにあたって、
どのような環境を整えていくのが良いのか、
どのような下地を作っておくと良いのか、
という観点で考えてみたいと思います。

私自身、アクティブラーニングという取り組みに対して
明確に正解がある訳ではないので、
こういうことを書きながら整理していきたい、
という思いが第一なのですが、
ある場所で
挙手指名は軍隊的でダメだ、
自由発言でないといけない、
という論調を目にして少し違和感を覚えました。

私のスタンスを示しておくと
アクティブラーニングとは、生徒同士の話し合いだけ、
を指すものではない、と考えていますので、
生徒が活性化する取り組みであれば、
挙手指名でも充分に成立すると考えています。

さらに言えば、純粋に生徒同士の議論を
活性化するためにも、その土台作りの過程で
挙手指名は必要だと思っています。


挙手指名に否定的な方は
 ・分かる子ばかりに答えさせるだけで偏りがある
 ・1回の授業で発言できる子は限られている
 ・子どもの発想が狭くなる
 ・活発な議論になり難い
 ・軍隊的で威圧的である

などの意見があるようです。
確かに一理ある、と思います。

アクティブラーニングを目指すのなら、
子ども達が主体的に参加、発言し、活発な議論が行なわれる空間を目指す、
というのが本筋でしょうから、その意味で挙手指名は否定される要素、
になるのかも知れないと思います。

しかし、
そこで自由発言にさせればいいか、
といえばそうではないという現実も知っておく
必要があるでしょう。

コミュニティの中での自己主張のあり方も含めた、
個人の自己表現力が育てられているからこそ、
教育先進国の授業は成り立っているのではないでしょうか。

そうした文化的な土台が異なる日本で
自由発言にするとどうなるか、
きっと、一部の自信を持った子どもだけが発言をする授業になるでしょう。

または、
いわゆる作法の部分とでも言うのかも知れませんが、
引きどころが分からない子ども達が
好き勝手に発言をした内容を先生が処理することに
追われてしまう授業になることでしょう。

ですから、
どこかで適切な自己表現力を身につけさせなければ
ならないのではないか、と思います。


例えば
間違った答えを発言しても、それを否定するのではなく
新しい議論を生み出すきっかけへと切り替える発想を
教えるのは先生の仕事。

私は挙手をさせる、ということは
あまりしませんが、生徒の顔を見て指名をしています。

先生と子ども達との間で
1対多数のやり取りを行ない、
指名をしていく中で、
答えて損したという空気を払拭し、
間違っても良いから、その発言を元に
さりげなく軌道修正しながらも授業が作られる、
というやり取りを先生が見せてこそ、
自己主張し辛い子も巻き込んで
子ども達がお互いを尊重し、話し合える土台が
形成されていくのではないか、とも思います。

要は、
自由発言で「きちんと」話し合える土台を作るために、
受け入れる、発言する、聴く、自分の考えを持つ、話し合う、
といった習慣を身につけるための練習を
まずは先生との対話を通じてやっていこう。

というステップが指名でのコミュニケーション、
いわゆる1対多数のやり取りでできるのです。


さて、
それはともかく
ハーバードの有名な白熱教室

あれはアクティブラーニングではないのかも知れませんが、
あのような授業も大いに有効なものだと思います。

白熱教室で見られる光景もまた、
自由発言ではなく、挙手指名。

あれも軍隊的で発想を狭めるもので、
子ども達の議論を狭めるものなのだろうか。

決してそんなことはないと思うのは私だけではないはずです。



授業には様々な形態が存在し、
それぞれに狙いがあり、効果があるものです。

教えるべきことは教えるべきことで存在します。
1対多数で議論するからできることもあります。

ですから、
生徒同士の話し合いだけですべての授業が成立する、
ということはありませんし、
その他は能動的学習ではない、というのも違和感を感じます。

議論は知識という道具があってこそ、であり、
純粋に聞く、という時間もきちんと学習する、
ということも必要な教育です。

先生との議論でより深い問題提起をされ、
考えるきっかけを与えられたりすることも
重要な教育です。

いわゆる生徒同士の話し合いを成立させるのも、
そうした背景によって培われた土台によるもの、
なのではないでしょうか。

そして
場面に応じて使い分けることも重要で、
生徒同士の話し合いだけがアクティブラーニングなのではない、
と思っているからなのかも知れませんが、
やはり、アクティブラーニングにおいて
挙手指名が軍隊的だからダメと決め付けるのはおかしいと思います。

挙手自体は積極的に参加をしようとする意思表意でもあるので、
上手に取り込んでいけばいい。

挙手できない子が参加できない、というなら、
挙手ではなく、先生が指名をしていけばいい。

答えられない子、間違えたくない子がかわいそう、
と言われることもありますが、そういう空気を作っていることが
まず問題で、それなら自由発言ならなお一層、そうした子どもは
自己主張などできないでしょう。
(友達同士でなら話せるかも知れませんが・・・)

そもそも発問に対して、
「正解」「不正解」でしか答えられないやり取りなら、
指名されて答えるには勇気がいることでしょう。
知っているか試す、という質問ではなく、
先生が生徒と授業をつくっていく過程にどう組み込むか、
という発想でやり取りをしていくことが大切なのではないか、
と思います。

そして、
発言に対してそれを受け入れる発想や習慣が
クラスにあるかどうかは大きな要素でしょう。
それはそこまでの生徒との関わり方、
姿勢、人間教育のあり方、が大きな影響を与える部分だと思います。


アクティブラーニングを議論している方々が
あれはダメ、これをしてはいけない、これはアクティブラーニングではない、
と先生自身が強固に縛られている様子を見ていると、
果たしてこれは、本当に活動的な授業なのか、と思ってしまいます。

もっと純粋に、
生徒を生き生きと授業に参加させて、
活発に楽しく学ぶ環境を作るために、
どんな下地をつくって、どう関わっていくか、
ということを先生自身を縛られずに挑戦していく姿を見せることが
生徒にとってもいい影響を与えるような気がするのですが・・・

だから、
挙手指名があってもいいし、
講義が入ってもいい。

それが生徒をアクティブにし、学びを活性化させる
仕掛けになるのなら、否定するものでもない、
と思うのですが、どうでしょうか。


何だかダラダラと長くなって
まとまりもなくてすいません。
とりあえず、個人的な雑感、ということで・・・
ICTは使う人次第
ICTを導入すれば教育、学習環境が良くなる。

というのは幻想だと思います。
どんなに優れたツールでも、
その使い方をきちんと考え、習得していなければ、
使いこなすこともできず、効果も生みません。

場合によっては逆効果にもなることでしょう。


言うまでもなく
タブレット、電子黒板、といったものは
あくまでもツールに過ぎず、
使う人によって、そして使い方によって
良くも悪くもなる、というのは当たり前のことです。

そして、
そうした道具を使わなければならない理由は何なのか、
ICTでないとできないことは何で、
それによって、どんな効果を期待できるのか、
そのビジョンがないといけないんだろうな、と感じています。

ただ、そのビジョンを考えるにも、
実際に何ができるのかを体感しないと
何も見えないし、想像の領域を脱することはできません。

だから、
個人的に反転授業に挑戦しようと思い、
ペンタブレットに悪戦苦闘しながらも
動画のコンテンツを製作し、
実践を試みました。

確かに、反転授業は面白い。
授業の幅も広がるし、生徒とのやり取りも深くなる。

だけど、
これは動画じゃないとできないことか?
そして、
生徒が見てくれることが前提であって、
自分で動画を見てくる習慣、環境があってこそ、
という大前提に突き当たりました。

多くの方が、その部分の壁に当たっている気がします。

では、動画を授業中に見せ、
残りの時間をグループワークで・・・

いやまて・・・
それなら、わざわざ動画ではなく、
普通に講義して時間を使うのと何が違うのか。

むしろ、生身の人間を教室に集める価値を見失っていないか。

友達の家に遊びに行って、
そこでそれぞれがDSで別のゲームをしている、
というのと同じくらいに違和感を感じました。



それなら
見たくなるような魅力的なコンテンツを作れば良い。

なるほど、
確かにその通りだと思います。


そうなると、
動画作成に関して、
先生の力が試される、ということかな、
とも思いますし、結局、そこで個人の努力と、
力量の差が生まれます。


要は魅力的なコンテンツがなければ
そして、魅力的なコンテンツを作ろうと努力をしなければ
ICTも宝の持ち腐れであり、効果は期待し辛い
ということなのかな、と思います。

既製のコンテンツも充実しつつありますが、
それをどう使うか、というアイデアも練られて
いなければ、やはり活用できずに終わることでしょう。


そして・・・
私は個人的に、
生徒には事前準備をさせ、
授業では授業でしかできないことを、
という方針で、教科書を読めば済むことは家で済ませる、
その上で授業で議論や課題解決をさせることで
知識ではなく、知恵を学ぶんだ、と指導してきました。

過去の話なので、そこには当然、ICTはなく、
事前学習に関しては
教科書を読み、マインドマップを書かせるなど・・・
アナログな指導でしたが、効果的だったな、と思っています。



ICTを導入することありき、の議論ではなく、
こんな授業を実現したい、というビジョンの先に、
ICTを使う、という選択肢が出てくる、くらいの感覚でありたいな、
と思いますが、いかがでしょうか・・・

私がまだICTの導入について未熟だからなのかも知れませんが、
ICTの導入こそ未来の教育、という風潮にも違和感を感じたので、
拙いながらも雑感を述べさせて頂いた次第です。



7/10 一部修正しました。
叱れない子育てになっていませんか
「叱らない子育て」という言葉を
よく耳にするようになってしばらく経っていますが、
実際に「叱れない子育て」になっている方を見かけると
個人的には少々、心配になります。


叱らない子育て、というのは要するに、
子どもの自尊心、自己肯定感を損なわないように、
トップダウンで押さえつけるのではなく、
子どもを一人の人間として尊重した上で、
自ら自覚し、行動するように対話を通じて導いていこう、
という趣旨だと理解しています。

それならば、納得です。
否定するところはありません。


ですが、それは悪いことを悪いと伝えてはいけない、
やってはいけないことを指摘してはいけない、
という意味ではないはずなのです。

ところが、
「叱らない子育て」を都合よく解釈し、
「叱れない子育て」になっている方をよく見かけます。


アドラーの心理学から
「叱らない子育て」という発想が出ていると認識していますので、
アドラーの考え方から確認していきます。

基本的に、勇気づけという観点で関わることを軸として
相手と関わることで、お互いに良い関係を構築できる、というもので、

岩井俊憲さんの著書「勇気づけの心理学」によれば、

-勇気づけとは、自己尊重(自尊心)と自己信頼を築くのを支援するために個人の持ち味と潜在力に焦点を当てるプロセスであり、勇気と信頼を確立するのに欠かせない技術を適用することで現実化する理論である。(ディンクマイヤーによる定義)-

とされています。

それならこれは、
基本的な態度として、
お互いを尊重しあい、信頼しあう態度の上で、
より良い行動を起こしていこうとする意欲を育てていくための関わり方です。

目の前にすでに起こっているトラブルをどう解決するか、というものではありません。
どちらかと言えば、予防するために、そして次に繰り返さないために、
どのように関わるか、というものです。

だから、
目の前に起こっている事に対して、
何もしなくていい、放置していい、ということではない、
と私は考えています。

目の前に危険があるのなら、
他者への迷惑が明確に生じるのなら、
それは保護者の責任として止めた上で、
「勇気づけ」をして次に起こらないように話をすべきでしょう。

大切なのは、まずそこで、
子どもが話を聞ける関係にすること。

そこに至る前にまず、目の前に生じている現象を止め、
なぜ、それがいけないのか、止められたのか、を
真剣に、短く、強く伝えることは非常に重要です。

それが叱るということで、
何が良くて、何が悪いのか、を熱意をもって伝えること、
そして、今、起こっている「悪いこと」「危険なこと」を止めるために
事の重大さを理解させるために表現すること、でもあると思います。

その部分が冷静さを失い、
「叱る」ではなく「怒る」になって
相手の自尊心や人格を損なうような言葉がけや
親のイライラを解消するために感情的な爆発をぶつける、などが
混じるとおかしなことが起こる、ということで、
ダメなものをダメと伝えてはいけない、ということではないのです。
(私の解釈なので怒られてしまいそうですが・・・)

だから、「叱らない子育て」ではなく
「怒らない子育て」が正しいのではないか、と思います。

先述した
岩井俊憲さんの著書「勇気づけの心理学」の中で

勇気くじきをやめる

という部分があります。
これがいわゆる「叱らない」の考え方の土台になっているのかも知れませんが、
そこでは勇気くじきをやめるには、

①原点主義
②ダメ出し
③結果重視(プロセス軽視)
④競争原理
⑤人格軽視
⑥聞き下手
⑦失敗を非難

以上の7つのパターンをやめるように心掛ける
とされています。

さて、電車の中で靴をはいたままシートに乗り、
隣の人の衣服に土足の靴の汚れがつきそうなとき、
それを叱らないのは、
それは、②のダメ出しをしてはいけないから、なのでしょうか。

私はそれを叱るのは勇気をくじくダメ出しと同じではない、と思います。

いわゆるお絵かきなど、個々の発想が膨らませられるようなものに
個人の価値観でダメ出しをするというのは問題ですし、
お手伝いを失敗したなどというケースでダメ出しをしたり、
非難をするのはまさに勇気をくじくことだと思いますが、

社会のマナーやルールを破ったことに対して、
それはマナー違反、ルール違反である、という事実を伝えることは非常に大切で
これは勇気をくじく「ダメ出し」と同じにしてはならないと思います。

そして
こういうときによく考えなければいけないのは、
マニュアルでこう書いてあったから、~してはいけない、
という発想に縛られ過ぎていないか、ということです。

今、目の前に起こっている現象を放置することは
マニュアル云々を抜きにして、
社会を構成する大人の行動として、
そもそも相応しいかどうか、という観点で振り返ってみると良いのかも知れません。

そこで、
ウチではこういう関わり方だから、
周りに迷惑をかけても良いんです、となるなら、
社会性という点において子どもの教育以前の問題です。


子どもに優しく説明して、聞いてくれないから、
聞いてくれるようになるまで放置、という方もいます。

叱る、という行為は
何が良くて、何が悪いのか、を熱意をもって伝えること、
そして、今、起こっている「悪いこと」「危険なこと」を止めるために
事の重大さを理解させるために表現すること、
ですから、本当に叱らない、というのは
その重要性や伝えたい熱意を表現する、という観点が置き去りになっているため、
何度繰り返しても聞いてくれるようになることも、伝わることもないでしょう。

そして、
ただ理屈を捏ね繰りまわすだけでも良くありません。
ああ言えば、こう言うをお互いに繰り返すだけで、
余計な言い訳ばかりを聞き過ぎて、
結局、ルールやマナーが二の次になり、
個人の都合が勝ってしまう現象の陥っていきます。
ダメなものはダメ、という譲ってはいけない強さもそこには
表現しなければならないのです。


本当の優しさとは、
厳しくても、相手のことを思い、
熱意を持って関わること、だと思います。

親だからこそ、子どものことを思い、
時には心を鬼にして、真剣に伝えるべきことがあるのではないでしょうか。


そうした積み重ねの上に、
共有できる善悪の価値観ができ、
その先に、「いちいち叱らなくても済む関係」ができあがって、
本当の意味で「叱らない子育て」が実現していくのだ、と思います。


森の中の森の家(イチ・デザイン・ラボ)-落合秀一氏
昨日、友人が設計した住宅のオープンハウスにお邪魔しました。
奥様のために、接着剤などの有害なものを使わないことに挑戦し、
自然素材を用いたデザインの住宅、というコンセプトでした。

ochiai-house-1-B.jpg

「森の中の森の家」というタイトルをつけられたこの住宅は、
山中湖畔から森の中に入っていった先にあり、
スギと漆喰が印象に残る
まさにタイトル通りの佇まいでした。

建築家である彼自身が施主であり、設計を行なうので、
実験的な要素も多いため、住み始めた後も経過を聞いてみたい
要素が詰まっています。

さて、
元建築家としての話ではなく、
教育という視点で少し紹介してみようと思います。
[READ MORE...(続きはこちらから)]


プロフィール

moro(諸葛正弥)

カテゴリー

最近の記事

最近のコメント

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

■江東区・東雲にロボット教室・新規開校!ヒューマンキッズサイエンス東雲教室 ホームページ(※管理人が運営する新しい教室です。)
■教育ブログをお探しの場合はこちらを参考にして下さい。
        にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。